- 曽野綾子さんの人生とは?カトリック信仰と文学の道
- 文章が苦手だった少女時代~母親の作文特訓が作家の土台に~
- 良家の娘のタブーを破る~ペンネーム「曽野綾子」の誕生~
- 三浦朱門との出会いと64年の「おしどり夫婦」物語
- 400万部の大ヒット!「誰のために愛するか」の魅力
- 「太郎物語」と「神の汚れた手」~社会問題にも切り込んだ作品群~
- 作家活動を超えて~日本財団会長とJOMASの社会貢献~
- 上皇后美智子さまとの親交~聖心女子大出身の絆~
- 90歳を超えて語り継いだ曽野綾子さんの名言と現代への示唆
、作家の曽野綾子(その・あやこ)さんが93歳で亡くなりました。
「叶わなくても希望を追うのが人間の美学」と語り続けた曽野さんは、多くの名作を残し、日本文学界に大きな足跡を残しました。
曽野さんと言えば、400万部を超える大ベストセラー「誰のために愛するか」の著者として知られていますが、実は子どもの頃は文章を書くのが苦手だったって知ってましたか?
どうやってベストセラー作家になったのか、そして作家・三浦朱門さんとの64年におよぶ「おしどり夫婦」の物語など、曽野さんの知られざる人生を見ていきましょう。
曽野綾子さんの人生とは?カトリック信仰と文学の道
曽野綾子さんは、東京で生まれました。
本名は三浦知壽子(みうら・ちずこ)といいます。
幼少期から聖心女子学院で学び、高校時代にカトリックの洗礼キリスト教の仲間入りの儀式を受けました。
聖心女子大学の英文科を卒業した曽野さんは、生涯を通してキリスト教の信仰を大切にしていました。
この信仰が、後の作品の中心テーマになっていくんです。
文章が苦手だった少女時代~母親の作文特訓が作家の土台に~
ベストセラー作家になった曽野さんですが、子どもの頃は実は文章を書くのが苦手だったんです。
これ、意外じゃないですか?
そんな曽野さんを鍛えたのが、お母さんの特訓でした。
小学校に入ったときから、毎週作文を書かせられ、厳しく添削してもらっていたそうです。
今でいえば、ピアノやスポーツの習い事のようなものですね。
最初は嫌々だったけど、コツコツ続けることで才能が開花しました。
その結果、小学6年生のときには「小説家になる!」と友達に宣言するまでになったんですよ。
みなさんも、今は苦手なことでも、コツコツ努力すれば得意になれるかもしれませんね。
良家の娘のタブーを破る~ペンネーム「曽野綾子」の誕生~
曽野さんが若い頃の日本では、「良い家庭の娘」が作家になるのはタブーとされていました。
今の時代では想像できないかもしれませんが、そんな時代だったんです。
曽野さんはどうしたと思いますか?
あきらめずに「ペンネーム作家が本名の代わりに使用するペンの名前を使おう!」と考えたんです。
こうして「曽野綾子」という名前が誕生しました。
本名を隠して作家活動をスタートさせた曽野さんは、19歳で同人誌仲間で作る小さな文学雑誌「ラマンチャ」に参加し、その後「新思潮」という同人誌に移りました。
そこで運命の出会いが待っていたんです。
三浦朱門との出会いと64年の「おしどり夫婦」物語
同人誌「新思潮」で曽野さんが出会ったのが、作家の三浦朱門さんでした。
初めて同人誌の会合に参加する曽野さんを迎えに来たのが三浦さんだったそうです。
これって勇気がいることですよね。
二人はに三浦さんが91歳で亡くなるまで、なんと64年間連れ添いました。
文壇作家たちの社会や世界では「おしどり夫婦」として知られていたんですよ。
三浦さんは生前、曽野さんについて「彼女はとにかく努力家で勉強家」と評する一方で、「家庭では普通の人。家事もひと通りのことは習っている」と話していました。
作家として活躍しながらも、家庭も大切にしていた曽野さんの姿が見えてきますね。
400万部の大ヒット!「誰のために愛するか」の魅力
曽野さんの作品の中で最も有名なのが、に発表されたエッセー「誰のために愛するか」です。
この本は400万部という驚異的な売り上げを記録し、映画やテレビドラマにもなりました。
「誰のために愛するか」って、タイトルを見ただけでも、ちょっと考えさせられませんか?
私たちは誰のために生きているのか、誰のために愛しているのか。
そんな人生の根源的な問いを、曽野さんは優しい言葉で語りかけてくれます。
「太郎物語」と「神の汚れた手」~社会問題にも切り込んだ作品群~
曽野さんは長男をモデルにした青春小説「太郎物語」や、妊娠中絶の問題に切り込んだ「神の汚れた手」など、社会問題にも深く切り込む作品を次々と発表していきました。
それは、複雑な問題も身近な視点から描くことができる才能があったからだと言われています。
曽野さんは毎年何冊もの本を出版するというハイペースで執筆活動を続け、有吉佐和子さんや瀬戸内晴美(寂聴)さんらとともに「才女時代」と呼ばれる時代を築きました。
日本の文学界をリードする女性作家として、道を切り開いていったんですね。
作家活動を超えて~日本財団会長とJOMASの社会貢献~
曽野さんは小説家としての活動だけでなく、社会貢献活動にも力を入れていました。
からは海外で活動する日本人のシスターや神父を支援する活動を始め、この活動は現在も「海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)」として続いています。
また、からまでは日本財団の会長を務め、日本郵政の社外取締役その会社の社員ではなく外部から招かれた取締役や教育再生実行会議委員なども歴任しました。
信念を持って社会のために動く曽野さんの姿勢は、私たちにも大きな示唆を与えてくれます。
上皇后美智子さまとの親交~聖心女子大出身の絆~
曽野さんは、上皇后美智子さまとも親交があったことが知られています。
二人は同じ聖心女子大の出身という共通点がありました。
報道によると、上皇さまと美智子さまが葉山御用邸に滞在する際に、曽野さんが三浦半島に所有する別宅へお立ち寄りになられていたこともあったそうです。
文学を愛する二人の交流は、きっと素敵なものだったのでしょうね。
90歳を超えて語り継いだ曽野綾子さんの名言と現代への示唆
曽野さんは90歳を超えても、「叶わなくても希望を追うのが人間の美学」「待ち方のうまい人が幸福になれる」など、前向きな言葉を発信し続けていました。
今のSNS時代、すぐに結果を求めがちな私たちにとって、とても大切なメッセージではないでしょうか?
曽野さんの作品には、時代が変わっても変わらない「人間の本質」についての洞察が詰まっています。
だからこそ、今の若い世代にも読んでほしい作家の一人なんです。
あなたも、曽野さんの本を一冊手に取ってみませんか?
きっと、自分の人生を見つめ直すきっかけになるはずです。