いつ病気で倒れるかわからない
―。
、最後となった『小倉ベース』の収録後、小倉智昭さんはそう語っていました。
その言葉通り、、77年の生涯を閉じることになります。
膀胱がんとの闘病を公表し、後進のために体験を発信し続けた小倉さん。
最期まで「伝える」ことをやめなかった背景には、意外な原点がありました。
22年間の『とくダネ!』で築いた朝の顔
、フジテレビの朝の情報番組『とくダネ!』がスタートしました。
実は、小倉さんにとってこの番組は28年越しの願いだったといいます。
大学生の頃、就職活動でフジテレビを受験した際、「朝の情報番組をやりたい」と面接で話したものの、不合格。
その夢が、まさかの形で実現することになったのです。
番組では、歯切れの良いオープニングトークが特徴的でした。
時には厳しい意見を述べることもありましたが、それも視聴者への真摯な思いがあってのこと。
には同一司会者による全国ネット情報番組として最多放送回数4452回を達成。
22年間、朝の顔として多くの視聴者に親しまれました。
このように、小倉さんは『とくダネ!』を通じて、視聴者との強い絆を築き上げていったのです。
では、なぜそこまで「伝える」ことにこだわったのでしょうか?
知られざる原点|吃音を克服しアナウンサーへ
実は小倉さんには、意外な過去がありました。
子どもの頃から吃音に悩まされていたのです。
さらに、秋田県出身ということもあり、訛りも強かったといいます。
でも、小倉さんは逆転の発想をしました。だからこそ、話すことを仕事にしよう
。
吃音を克服するため、あえてアナウンサーの道を選んだのです。
また、運動能力も抜群でした。
高校時代には100m走で10秒9の記録を出し、大学でも陸上部に所属。
実は、の東京オリンピックでは聖火ランナーも務めています。
このように、困難に立ち向かう姿勢は若い頃から培われていました。
この経験は、後の闘病生活でも活かされることになります。
闘病生活で見せた覚悟|人工膀胱の体験を発信
、68歳で膀胱がんを公表。
には膀胱を全て取り除く手術を受け、人工膀胱での生活を始めました。
当時はまだ一般的ではなかった人工膀胱について、自身の体験を積極的に発信。男性トイレにもサニタリーボックスの設置を
と訴え、大きな反響を呼びました。
には肺への転移が見つかり、さらに腎臓の全摘手術も経験。
それでも最期まで、自身の経験を社会に還元し続けました。
闘病中も「老々介護」の現実を語り、別居しながら介護をする妻への感謝を表明。
人生の終わりが近いことを悟りながらも、若いうちに楽しむことが大切
というメッセージを発し続けました。