- 佐紀池ノ尻古墳とは?その大きさと特徴
- なぜ今まで見つからなかった?平城京建設で破壊された古墳の謎
- 古墳はどうやって発見された?最新技術と考古学の力
- 佐紀古墳群とは?奈良に眠る古代のお墓たち
- 誰のお墓だったの?ヤマト王権の有力者の謎
- なぜ平城京建設時に古墳を壊したの?古代人の決断
- この発見が重要な理由 - 古代史の見方が変わる!
- 佐紀池ノ尻古墳の出土品を見に行こう!展示情報
- まとめ:私たちの足元に眠る1300年前の歴史
あなたの家の真下に、1300年前の権力者のお墓があったらどう思う?🤔
実は奈良市の住宅地の下から、サッカーコート2面分もある巨大な古墳が見つかったんです!
しかも、平城京という古代の都を作るために壊されていたという驚きの事実も明らかになりました。
今回は、に奈良市教育委員会から発表された「佐紀池ノ尻(さきいけのじり)古墳奈良市で発見された巨大な古墳の名前」について、誰でも分かるようにご紹介します!
佐紀池ノ尻古墳とは?その大きさと特徴
佐紀池ノ尻古墳って、いったいどんな古墳なの?
この古墳は全長約200メートルという超巨大な「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)前が四角く後ろが丸い、ウサギの耳みたいな形のお墓」です。
200メートルってどれくらい?と思ったら、こんなイメージ💡
- 東京ドームの半分くらいの長さ
- マンション20棟分を並べたくらい
- 小学校の校庭2〜3個分の広さ
しかも、幅約30メートル、深さ2メートル以上の大きな堀(周濠/しゅうごう古墳を囲む堀)で囲まれていたんです。
今から約1600年前、4世紀末ごろに作られたと考えられています。
当時としてはめちゃくちゃ立派なお墓だったんですね!
なぜ今まで見つからなかった?平城京建設で破壊された古墳の謎
どうして今まで誰も気づかなかったの?って思いますよね。
実はこの巨大古墳、710年に平城京(現在の奈良市)に都が移されたとき、その建設工事でほぼ完全に壊されてしまったんです。😱
古墳は8世紀初めごろの造成土の下に埋もれてしまい、その上に平城京の建物が建てられました。
そして時間が経つにつれて、その上に現代の住宅が建ち並ぶようになったんです。
つまり、1300年以上も地下に隠れていたから見つからなかったんですね!
これほど大きな古墳が壊されていたことが分かったのは、考古学的にとても珍しい発見なんですよ。
では、どうやってこの眠っていた巨大古墳が見つかったのでしょうか?🧐
古墳はどうやって発見された?最新技術と考古学の力
この古墳の発見には、最新技術と地道な発掘調査の両方が活躍しました!
、奈良市法華寺町での宅地造成に伴う発掘調査が行われました。
そこで幅8メートル以上の溝の跡から、「円筒埴輪(えんとうはにわ)筒状の埴輪」と「鰭付盾形埴輪(ひれつきたてがたはにわ)盾の形をした特殊な埴輪」という古代のアート作品が出土したんです。
航空レーザー測量が明らかにした古墳の姿
発掘調査だけではなく、最新技術も大活躍!
「航空レーザー測量飛行機からレーザーを地面に向けて照射して、その反射を測定することで地形を細かく調べる技術」という技術を使いました。
その結果、住宅地の下に隠れていた古墳の形や高まりを発見することができたんです。
過去の発掘調査の情報と合わせて、全長約200メートルという巨大な前方後円墳だったことが分かったんですよ!✨
発掘調査で見つかった鰭付盾形埴輪の重要性
発掘で見つかった「鰭付盾形埴輪」は、4世紀後半~末ごろにしか作られなかった特殊な埴輪なんです。
埴輪(はにわ)古墳を飾るために置かれた土でできた人形や筒って何?って思った人のために説明すると、古墳を飾るために置かれた土でできた人形や筒のこと。
その中でも鰭付盾形埴輪は、盾の形をしていて特殊な装飾がついた埴輪です。
この埴輪が出土したことで、古墳の時代を特定する重要な手がかりになりました。
同様の埴輪は「富雄丸山古墳」という、巨大な蛇のような形の剣(蛇行剣)が見つかった古墳でも出土しているんだそう。
佐紀古墳群とは?奈良に眠る古代のお墓たち
佐紀池ノ尻古墳は、実は「佐紀古墳群(さきこふんぐん)奈良市北部にある古墳のグループ」という大きな古墳のグループの一部だったことが分かっています。
佐紀古墳群は奈良市北部にある約70基の古墳からなるグループで、4世紀後半から作られ始めました。
天皇や皇族のお墓と考えられている大型古墳も含まれている超VIPなエリアなんです👑
東群と西群に分かれる佐紀古墳群の新事実
佐紀古墳群は大きく分けて「西群」と「東群」に分かれています。
これまでは西群が先に作られ、その後東群が作られたと考えられていました。
でも今回の発見で面白いことが分かったんです!
つまり、東と西で同時期に古墳を作っていた時期があったということ!
佐紀古墳群の古墳はすべて南北方向の向きが同じなんですが、これは朝鮮半島のある北方を意識して作られた可能性があるとも言われています。
すごく計画的に作られていたんですね🗿
誰のお墓だったの?ヤマト王権の有力者の謎
佐紀池ノ尻古墳は誰のお墓だったんでしょう?🤔
残念ながら、具体的な人物までは特定されていません。
でも、その大きさから「ヤマト王権奈良県を中心に古代の日本を治めていた政治勢力の中枢にいた権力者」のお墓と考えられています。岸本直文・大阪公立大教授(考古学)によると、「先行した西群と同時期に、距離の離れた東側にもほぼ同じ規模の前方後円墳を築造できる有力者が王権内にいた」ということが重要なんだそう。
さらに、その後東群に古墳を作っていった勢力の最初の人物かもしれないという見方もあります。
古代の重要人物のお墓だったことは間違いなさそうですね!
なぜ平城京建設時に古墳を壊したの?古代人の決断
、元明天皇によって都が平城京に移されることになりました。
新しい都を作るために、古墳が壊されたんです。
でも、どうして立派な古墳を壊してしまったの?と思いますよね。
奈良市埋蔵文化財調査センターの村瀬陸学芸員は、「平城京の建設時に天皇や皇族のお墓(陵墓/りょうぼ天皇や皇族のお墓)と認識されていなかった古墳は、容赦なく破壊されていた可能性がある」と指摘しています。
つまり、当時の人たちにとって「これは重要な人のお墓だから残そう」「これは普通の人のお墓だから壊してもOK」という判断があったのかもしれません。
今で言えば、新しい学校を建てるために古い公園をなくすような感じでしょうか。
また、平城宮跡の北側にある市庭(いちにわ)古墳も、元々は全長約253メートルの前方後円墳だったのに、平城宮を造るときに円墳(丸い形の古墳)に変えられていたことが分かっています。
こちらは現在、平城天皇陵として宮内庁が管理しています。
この発見が重要な理由 - 古代史の見方が変わる!
佐紀池ノ尻古墳の発見は、考古学や歴史学にとってなぜそんなに重要なの?🧐
大きく分けて3つの理由があります:
- 巨大古墳が完全に破壊された例として最大級:
平城京造営で破壊された古墳としては過去最大規模であることが分かりました。古代の都市計画と古墳の関係を考える新しい材料になります。 - 佐紀古墳群の理解が深まった:
東群と西群が同時期に作られていた時期があったことが判明し、古墳群の成り立ちについての理解が変わりました。 - 古代のヤマト王権内の力関係を示唆:
離れた場所で同じくらい大きな古墳を作れる複数の有力者がいたことを示しています。古代政治の複雑さを物語っています。
この発見は「どんな大きな古墳でも、重要と認識されなければ壊される運命にあった」という古代の価値観も教えてくれます。
現在では考えられないことですが、当時は新しい都のためなら致し方なかったのかもしれませんね。
佐紀池ノ尻古墳の出土品を見に行こう!展示情報
この興味深い古墳の出土品、実際に見てみたいと思いませんか?✨
- 【佐紀池ノ尻古墳の出土品展示情報】
- 場所:奈良市埋蔵文化財調査センター
- 住所:奈良市大安寺西2
- 期間:3月3日~31日(土曜休館)
- 時間:午前9時~午後5時
- 入場料:無料
円筒埴輪や鰭付盾形埴輪など、1600年前の人々が作った埴輪を直接見ることができます。
他にも、平城京の官営市場「東市」の推定地や当時の食生活が分かるトイレ関連の発掘成果なども展示されているそうですよ!
歴史好きの人はもちろん、学校の自由研究にも使えそうな情報がたくさんです。
ぜひ足を運んでみてください👣