眉間に皺なんて見たことないくらい、いつもニコニコされている方でした
米米CLUBのボーカル・石井竜也さんは、バンドの元メンバー、ジュリアーノ勝又さんをそう追悼しました。
、音楽シーンに大きな足跡を残した一人のミュージシャンが旅立ちました。
突然の訃報、音楽仲間からの追悼の声
米米CLUBの石井竜也さんが、自身のSNSで元メンバー・ジュリアーノ勝又さん(本名:勝又隆一さん)の訃報を伝えました。
からの解散まで米米CLUBのメンバーとして活動した勝又さん。
昨年10月に難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)を公表し、今年5月からは介護施設で療養生活を送っていました。
石井さんは「もう一度、勝又さん一緒に仕事をしたい!と、ずっと願っていました」と、込み上げる思いを語りました。
一緒に活動した仲間からは、その音楽性はもちろん、温かい人柄を惜しむ声が多く寄せられています。
このように、音楽仲間からの追悼の声からは、勝又さんがいかに愛される存在だったかがわかります。
では、なぜこれほど多くの人々の心を掴んだのでしょうか?その人柄と音楽家としての歩みを見ていきましょう。
音楽への情熱と温かい人柄
勝又さんは1995年に米米CLUBに加入。
当時のメンバーが語るエピソードからは、その人柄の良さが伝わってきます。
くだらないことを馬鹿笑いしてくれた
と石井さんが振り返るように、バンドの雰囲気を明るくする存在でした。
その一方で、音楽面での実力は本物。
特にシティポップと呼ばれる都会的な音楽のアレンジでは、その才能を遺憾なく発揮しました。
石井さんのソロ活動でも、番組「アンモナイト」でアレンジを手がけ、その実力の高さに「鳥肌が立った」と言わしめたほどです。
このように、明るい人柄と確かな音楽性を兼ね備えた存在でした。
では、米米CLUBでの活動は具体的にどのようなものだったのでしょうか?
米米CLUBでの活躍と音楽への貢献
米米CLUBでの2年間、勝又さんはアレンジャーとしてバンドの音楽性を支えました。
当時、米米CLUBは「浪漫飛行」や「君がいるだけで」などのヒット曲を生み出し、その人気は絶頂期を迎えていました。
勝又さんの加入は、バンドに新しい音楽的可能性をもたらしたと言われています。
その後のバンド解散まで、重要なメンバーとして活動を続けました。
バンド解散後も音楽活動は継続。多彩な音楽性とアレンジ力は、多くのミュージシャンから高く評価されていました。
こうして音楽の道を歩んできた勝又さんでしたが、昨年、大きな試練が訪れます。それは、ALSという難病との闘いでした。
闘病生活と最後まで持ち続けた音楽への愛
昨年10月、勝又さんは自身のSNSでALSの発症を公表。
全身の筋力が衰えていく難病と診断されましましたが、その投稿からは前向きな姿勢が伝わってきました。
今年5月からは介護施設での生活を始めましたが、9月の投稿では「毎日なんとか明るめに生活できております」と、明るさを失うことはありませんでした。音楽を聴くことが何よりの癒しだったと綴っています。
最後のSNS投稿となった9月の言葉には、音楽への変わらぬ愛と、前を向いて生きる強さが表れていました。